安土桃山時代に戦で荒廃した博多を豊臣秀吉が復興させるべく町づくりを行い
七つの「流」に区分けしたのが「太閤町割」で
魚町流・呉服町流・須崎流・石堂流・土居流・西町流・東町流
以上が博多(旧)七流の始まりで現在に続く「流」の基礎となっています。
「流」という呼称については3つの説があります。
1つ目は那珂川の流れにみたて秀吉がつけたと伝えられている説。
秀吉が生まれた名古屋市・庄内川のほとりに「流れ」という小字があり
権力者が新しい土地に自分の故郷を思い出し付けたのではと言われてます。
2つ目は福岡藩祖・黒田官兵衛(如水)が若い頃、家老として仕えた小寺氏の
播磨・御着(姫路市)地方では溜池を「流」と呼ぶ事から官兵衛が付けたと言う説。
3つ目は小川や旗を数える単位として「流」という言い方があり道を中心に
長く延びた町の集合体を小川などに見立てて呼んだのではないかと言う説です。
「流」は町筋や通りに沿って構成され、縦筋(博多川や御笠川の流れと同じ方向)として京の都より
東町流・呉服町流・西町流・土居町流の4つ、横筋として大宰府より魚町流(福神流)・石堂流(恵比須流)・洲崎流(大黒流)の3つの
計七流が「博多(旧)七流」とされ、これら町筋の基準線である市小路(現在の大博通り)は歴史的にも関係の深い
大宰府の方角を指し示すように設定されたものとなっています。
時代の転変や昭和41年に施行された町界町名整理等の事情も重なり現在では「恵比須、大黒、土居」の旧来の三流に
東町流を主体とした東流、西町流を中心にした西流、戦後新たに組織された中洲流と千代流の七流で構成され「博多七流」と称します。
各流はそれぞれ独自に運営され、しきたりや決まり事も流により異なっています。
自治要素の強い各流をまとめるのが「博多祇園山笠振興会」という組織になります。
各流の運営は流の中の一つの町が「当番町」となり、当番町を中心に行われます。
当番町を回す当番町制の流もあれば数カ町が1つのブロックにまとまりブロックごとに回す合同当番町制(ブロック制)あるいは
流全体で運営する流当番制と、流によって異なった運営方式を採っています。
当番町はさまざまな業務に忙殺されますが追い山の櫛田入りを任される栄誉を手にします。
流ではしきたりや儀礼に厳しく長幼の序がしっかりと定められています、しかし年齢だけで立場が定まるのではなく山笠経験年や貢献度
周囲の信頼など人間性全般が考慮され社会的地位があっても経験が浅ければ直会の皿洗いからというように扱われます。
実働部隊の「赤手拭い」や取りまとめ役の「町総代」「総務」に任命されるのはとても名誉な事なのです。
大黒天(大国主命)の名に由来する流で那珂川の分流の博多川右岸に位置する12ヶ町(須崎町一区 須崎町二区 須崎町三区
対馬小路一区 対馬小路二区 古門戸町一区 古門戸町二区 川端中央街 下新川端町 麹屋町 寿通 川端町)で構成され昔は
須崎流とも呼ばれ、旧七流から続く伝統を誇り、厳しいしきたりも色濃く残っていると言われます。
長法被・水法被とも町ごとに異なり、町総代が山笠流委員を務め一つの町内が当番町を受け持つ。
そしてその年の当番町町総代が流総務を務める事になっている。
大黒流独特の風習に11日早朝の祝儀山の際に各町総代が麻の帷子・白足袋・草鞋のいでたちで御祝儀の膳を囲みます。
その際は若手が提灯を手にし町総代宅へ迎えに行き「もうろうろう(もうどうぞ)」と声を掛ける慣わしとなっています。
過去の追い山ならし・追い山の櫛田入りと全コースのいずれも制覇した記録があり、1966年から1979年まで14年連続の
追い山全コーストップの記録を持ち昭和30年以降全コーストップを20回も記録する等、常に上位に名を連ねる実力派の流です。
JR博多駅から北に延びる大博通りの東側の区域で構成されている。
1966年の博多地区の町界町名整理を機に東町流に呉服町流 福神流(魚町) 櫛田流の一部が合流して新たに発足したのが東流。
流の運営は全町でおこなう流当番制を採用、町総代 取締らの役員で代表を選出し毎年正月の辧天講でその年の総務を決定。
1968年以降水法被は「東」の一字で統一され長法被もまた縦筋模様に統一されています。
昭和57年からは「飾り山笠」も復活、13日集団山見せ出発地点の呉服町交差点南東角に建てられ、山台は舁き山と共用。
東流も上位に名を連ねる常連、2010年から追い山ならし・追い山の櫛田入りと全コースいずれもトップの記録を残しています。
戦後に発足した新しい流ですが古くは大正14年の一番山に「土居町流東中洲」として参加した記録があります。
九州一の歓楽街中洲1~5丁目で構成され当番町は順番に務め、全体で受け持つ流当番と町内が受け持つ当番町を合わせた
流当番代表当番町制を採用し、水法被は流れるような書体で「中洲」が染め抜かれ、水法被・当番法被とも流で統一されている。
戦後博多山笠が再興された際に旧博多七流に新たに五流が加入、1949年中洲流も新たに興されたが町界町名整理で新旧の流が
統廃合される中で一貫して「中洲」の名で参加、50年の歴史と山笠の伝統を守る姿勢には確固たるものが伺える。
戦後の博多祇園山笠期成会結成当初より飾り山を建て、舁き山との山台共用のやり方を継承しています。
大博通りの西側で東流と対面した区域で構成されています。
1966年の博多地区の町界町名整理を機に西町流に岡流 櫛田流 呉服町流 福神流(店屋町) 恵比須流 沖浜流の一部が合流し
発足した西流、運営は11ヶ町を5ブロック(冷泉町上 冷泉町下 店屋町 綱場町 奈良屋町)で構成し順番で行われます。
西流発足当時は統一の法被が作られたが現在ではそれぞれの町名を染め抜いたものになっている。
「年齢階梯制」というしきたりや追い山後の「山崩し」などが残っており伝統を守っている一方で若手衆による勉強会も行い
後進の育成にも力を注いでいます。
御笠川を渡った右岸に広がる地域で構成する戦後発足の千代流、千代小・千代中と一つの学区で構成され団結力は強い。
1987年千代小に子供山笠を寄贈、7月の学校行事となり1990年には飾り山が復活、山笠に対する情熱はどこの流よりも熱い。
千代校区も1976年に新町名に移行し三十数ヶ町が千代1~6丁目に整理、各町から選出の流運営委員会でその年の当番町を決定。
参加人数二千名を超える規模の大きさと早さが特徴の千代流、水法被も長法被も千代の二文字で統一し一体感を印象付けます。
舁き手が多いのでスタミナ切れで山足が遅くなることは無いのですが一人あたりの舁く時間が短く、棒競り(担ぎ場所の取り合い)
が激しいといわれています。
1955年以降2010年までに20回の追い山全コーストップ、1996年から2003年までは連続でトップを記録しています。
かつては石堂流と呼ばれた旧七流の一つ。横筋を一貫した博多五町横筋の綱場町 中間町 中石堂町と石堂川東側の蓮池町 官内町
上堅町 中堅町 下堅町 上金屋町 下金屋町 横町(いずれも旧町名)の計11ヶ町で構成、6ブロックに分けて当番町を回しています。
各町それぞれの名前が入った法被が特徴で他の流に比べると舁き手は少ないが、少数精鋭で櫛田入りには定評があります。
伝統が息づく流の一つで山笠が旧暦6月の祭りだった事を伝えるため今も6月1日に注連下ろし(辻祈祷)神事を行っています。
追い山ならし・追い山で7本の舁き山が勢ぞろいする櫛田神社前の土居通りに面した流区域で構成される土居流。
旧10ヶ町の上新川端町 大乗寺前町 上土居町 中土居町 下土居町 片土居町 川口町 行町 浜小路町 西方寺前町で運営。
古くからのしきたりが残った旧来の博多七流の縦筋の四流の一つとして太閤町割りから名称の変わらない伝統ある流
運営も旧町名にて行われ、町独自のデザインの水法被と長法被のほとんどが紺の久留米絣が使われています。
1966年の博多地区の町界町名整理を機に土居町が消滅した事により流解散の危機に追い込まれますが土居流存続に敢然と立ち上り
「土居流保存会」を結成し参加を表明、既に山笠の順番は決まっていたため最後の十四番山笠・標題「博多童勇姿」として参加。
1967年1月の振興会総会で旧10ヶ町で改めて「土居流」を組織し再興され現在に至ってます。
1964年走る飾り山と呼ばれる八番山笠が登場。
運営は上川端通(上川端商店街)が取り仕切り追い山ならし・追い山ではこの巨大な飾り山が舁き出されて櫛田入りを披露します。
上川端通の山笠は電線や商店街のアーケードに合わせ6.5m~最高12.5mと高さを調整する電動リフトを備えている。
またスモークや特殊な紙の花吹雪を噴出するなど趣向を凝らした山笠になっており、見物客の歓声は一段と大きいものに。
足りない人手を博多祇園山笠讃合会・県職員有志・博多区職員有志・青年会議所有志・九大の運動部員などの助っ人で補っており
その意味からも独特な存在となっています。